三川内焼の歴史
平戸藩御用窯として繁栄後、
民窯として再建。意匠を今に伝承
慶長3年(1598)平戸藩主、松浦鎮信(しげのぶ)に命じられ、朝鮮の陶工、古巨関(こせき)は平戸・中野で最初の窯入れを行いました。これが三川内焼の始まりとされています。中野では良い陶石が採れなかったため、古巨関は平戸領内を旅に出て最後に落ち着いたところが三川内でした。以降、三川内焼は平戸藩御用窯として繁栄。平戸藩が窯の経営を行っていた時代に天草地方で陶石が発見されたことで、その技術は大きな発展を遂げました。またこの頃、輸出用に陶磁器を製作し、オランダや中国など海外の王候貴族にも愛用されました。明治維新を迎えると、御用窯から民窯へと転じますが、実績のない三川内焼は凋落の一途を辿ります。これを見かねた豊島政治という人が再建に乗り出し、販路を拡張、さらには明治32年(1899)に三川内山に意匠伝習所を創設しました。これにより三川内御用窯の技術は若い陶工たちに受け継がれ、今日の三川内焼に伝承されています。
三川内焼の魅力
白磁に染め付けられた優雅さ。
献上品らしい高級感が魅力
白磁に呉須(ごす)の青で絵柄を付けた染付が特徴の三川内焼。繊細優美で、精巧緻密さが定評です。かつて平戸藩御用窯として、時の将軍家への献上品や南蛮交易の輸出品として歴史を重ねきた経緯から、日用品から装飾品に至るまで優雅な気品を備えています。松の木の下で蝶と戯れる唐の時代の中国の子どもを描いた「献上唐子」と呼ばれる絵柄は三川内焼を代表するもの。不老長寿の図案として愛用されています。唐子が7人のものは朝廷と将軍家用、5人のものは大名とその重臣用、3人のものは一般武士用とされ、庶民が使うことは許されていなかったそう。三川内焼が高級品であったことを物語るエピソードです。
三川内焼ができるまで
天草の陶石で形成した白磁に、
美しい藍色で染め付ける
原料は熊本県の天草で採取された天草陶石。原石を細かく白い粉になるまでひいて、粗い粒子を取り除きます。これが陶土になります。形成するために、ろくろを回しながら手で形を作ります。また量産品では機械ろくろを使ったり、石膏の型に粘土を流し込んで取り出す鋳込みという技法もあります。天日で乾燥して器の表面を削り仕上げます。その後器を窯に入れて素焼きします。適度な固さになることで絵付け作業が行いやすくなります。呉須(ごす)という絵の具を使い絵付けし、釉薬(ゆうやく)を施し、1300度で本焼して完成させます。
主な産地・拠点 | |
このワザの職業 | 陶芸家 ろくろ成型職人 |
ここでワザを発揮 | 香炉 酒器 花器 茶器 割烹食器 |
もっと知りたい | みかわち焼オフィシャルサイト |