求道者たち vol.18
琉球紅型 2013/6/1

22歳で沖縄へ単身移住。
いま紅型作家として伝えたいこと。

22歳のある日、
琉球紅型と出会う

縄トモコ(なわ・ともこ) プロフィール/1981年 鳥取市米子生まれ。2003年 沖縄へ移住し紅型を学ぶ。2007年に独立とともに、自己ブランド「紅型ナワチョウ」設立。

 琉球紅型(りゅうきゅうびんがた)は、経済産業省の伝統的工芸品にも指定されている沖縄の染織品です。南国らしい明るく強い色彩と、花や鳥、海や空をモチーフにしたデザインは独特のもの。一度目にすれば、深い印象が心に刻まれるはずです。しかし、その多くが着物としてつくられるため、琉球紅型の名前も存在も知らないという人は案外多いのかもしれません。
若手紅型作家として活躍中の縄トモコさんも、琉球紅型との出会いは二十歳を過ぎてから。偶然手にとった女性誌の「沖縄の工芸特集」でだったそうです。「沖縄に染物があったのは、その記事で初めて知りました。こんなビビッドな色があったのか、こんな綺麗な色があるんだ、と一目惚れして、これをやりたいと思ったのです」と縄さん。「縄」という苗字から連想して、てっきり沖縄のご出身かと思っていましたが、縄さんの出身地は鳥取。つまり、沖縄から遠く離れた地で縄さんは琉球紅型を知り、このワザを身につけたい一心で海を渡ったのです。縄さん22歳の時でした。

首里城で観光客のために披露されていた舞。艶やかな着物、後幕が伝統的な琉球紅型。

当時は沖縄ブーム。
そして悩んでいた。

 縄さんが女性誌の記事で琉球紅型に出会った頃は、テレビドラマ「ちゅらさん」の影響で沖縄ブームが起こっていました。沖縄の風土、文化に憧れて移住をする人も多くいました。実は縄さんも、そんなブームの中「沖縄に行きたい」と考えていた一人。鳥取の高校を卒業し、関西で介護の専門学校に通いながら夜間は公立の演劇学校に通っていた当時、縄さんは「どうやって生きていくか悩んでいた」と言います。もちろん、進路はよく考えて選択したもの。介護専門学校は看護師だったお母様の影響と、お祖母様の介護を自分でしたかったから。演劇学校も高校時代に演劇部に所属していて、その演劇学校でもう少し深めたかったから。いま振り返ると、「両方勉強したことは良かったし、役に立っている」と思うものの、その当時は自分が「何をしたいのか」分からなかったのだそうです。そんな時に、琉球紅型と電撃的な出会いを果たし、仕事を辞め縄さんは沖縄へ飛んでいきます。

印鑑ケース。中を開くと赤のギンガムチェック。朱肉が染みないように防水加工するなど細やかな心配りで作られている。

最近は「額」やタペストリーなどが多くなってきたと縄さん。2010年頃から友人の影響もあり「旅」をテーマにした作品を手がけている。

移住、そして
弟子入りを果たす。

 思い立った縄さんは、インターネットで紅型の事などを情報収集。後は実際に沖縄に渡り、長期滞在しながら、住むところや、入れてもらえそうな紅型工房を探しました。そんな中、紅型体験教室の先生の紹介や人の繋がりから、縄さんが門を叩いたのが金城紅型染工房。運良く人手が必要なタイミングで、素直に「教えてください」とお願いした縄さんを快く受け入れてくれたそうです。伝統工芸品には、後継者育成事業があり、定期的に志願者を受け入れています。縄さんも後継者育成事業に志願したのですが、採用にはなりませんでした。それを知った金城先生は、ご好意で育成事業のプログラムに近い形で教えて下さったそうです。金城紅型染工房に半年通った後、縄さんは普天満紅型工房へも通います。「先生によって柄、色、個性はそれぞれ違います。金城紅型染工房の 色や、帯・着物に対するこだわり、友禅の手法を取り入れたり、新しい試みをする革新的なところは、とても尊敬していました。しかし同時に迷いもありました。本当に先生によって同じ紅型でも全然違うので、もっと色々見てみたくなったんです」。
そんななか出会った普天満紅型工房は、本顔料を使用、糊も手作りし、できるだけ昔の手法を守り紅型を続けている工房でした。
「琉球舞踊の踊り衣装の古典的な作品から、独創的な額の作品なども制作されていて、手法も勿論なのですが、紅型に対する深い想いや愛情にとても共感を覚えたんです」。2 つの工房への弟子入りで4 年の歳月を過ごし、2007 年、いよいよ縄さんは紅型作家として一歩を踏み出します。

型彫りの工程。大きな工房でない限り、作家は製作工程のほぼすべてを一人で行う。下敷きにしている「六寿(ルクジュー)」は沖縄の豆腐を乾燥させて作る。

型を使わずに柄を作る場合は、「筒引き」という手法を使う。ケーキの絞り袋のような道具と真鍮の「筒」を組み合わせたものに糊を入れて絵を描いていく。終戦直後は、使用済みの薬莢(やっきょう)を「筒」として使っていたという。

沖縄に来て知ったこと。
紅型を通じて伝えたいこと。

 縄さんの自宅兼工房は、のんびりとした風景の広がる南城市奥武島(おうじま)の近くにあります。海風が入るマンションの一室で、縄さんは本当に楽しそうに制作を続けます。「紅型は心の栄養。自分自身への癒しでもあります。黙々とやる手作業に、ひたすら没頭していると穏やかな気持ちになります」と縄さん。しかし、紅型は戦後の混乱期に継承の危機を経験しています。平和でなければ、紅型は続けられない。危機的な状況から紅型を復興した先人への敬意も込め、縄さんは紅型をつくることで平和への思いを発信して行きたいと語ります。2004年、沖縄国際大学にアメリカ軍普天間基地所属のヘリコプターが墜落した時、縄さんは普天間の工房にいたそう。「日常の中に基地があることも、沖縄に住み始めてわかったこと」と、沖縄の歴史、今をもっと知らなければと考えているそうです。

「型置き」の工程。糊は仕事がしやすいように薄いブルーに着色してある。

南城市の穏やかな風景。奥に見えるのが奥武島。那覇市、普天間を経て、ここへ移り住んできた。

旅の思い出を
一枚の布に染める。

 縄さんの作品には、聞けば聞くほど興味ひかれる物語があります。たとえば今染めているのは、フランスでグループ展をやった時に蚤の市で見つけた陶器のボタンがモチーフ。このボタンは作られていたのが戦後の一時期と短く、とても珍しいものだそう。これを韓国に旅した時に手に入れた、やさしい色調の麻の布に染色していきます。また5月の個展で展示した「幸せの森で」という作品は、フランスで手に入れたテーブルランナーに、同じくフランスで手に入れたリボンやイースターエッグを描いたもの。作品を手に入れた人は、縄さんの幸せな旅の思い出も共有できるのです。ところでフランスのグループ展は、縄さんにとって今後の活動にとても刺激になったそうです。

蚤の市で手に入れた陶器のボタンと、それをモチーフに制作された縄さんの作品。

5月まで姫路市の「GALLERYとーく」で開かれていた縄さんの個展ポストカード。「幸せの森で」は、こんな幸せな作品。

フランスでの出会い。
これからもっと海外へ。

 「フランスのグループ展は、絵画やイラストを描く方と一緒でした。沖縄県内で開くグループ展だと、ほとんど工芸の方と一緒です。ですから、いい意味でも悪い意味でも自分の作品は工芸的だなという感想を持ちました」と縄さん。この経験を通して、作品づくりはもっと自由でもいいんじゃないかと思うようになったそうです。「幸せの森で」は、そんな思いの中から生まれた作品なのでしょう。これからは「モダンで品がありながら、自分らしく今の時代に合ったもの」を模索して行きたいとも語ります。また日本は小さい、海外にも、もっと出て行きたい、と。海を渡り沖縄で琉球紅型をはじめて10年。今度は作品とともに、海を渡り縄さんは世界に紅型と平和を発信していくのでしょう。

「紅型という手法を使って、楽しいことをやっていきたい」。

型彫りから隈取りまで。
紅型制作の工程

 縄さんの工房で見せていただいた、紅型制作の工程をご紹介しましょう。

「型彫り」
「型置き」
糊が置かれた状態。糊が無いところに染料が入る。
顔料。
「色挿し」。塗り筆で柄に色を付ける。
「色挿し」。擦り筆で顔料を生地の奥深くまで浸透させる。
「隈取り」。色挿しが終わった柄に立体感をつけていくために、ぼかしを入れていく。このあと、染料を定着させる「蒸し」、糊を洗い流す「水元」などの工程を経て完成。

完成した作品。

紅型作家 型彫り