川辺仏壇の歴史
清水川の岸壁に刻まれた
塔や墓形、梵字がルーツ
古くから仏教がさかんな鹿児島県の川辺地方。鎌倉時代の初めにこの地で勢力を保っていた河辺氏と、壇ノ浦で敗れた平家の残党が、供養や仏教の伝道にいそしみ、彼らによってこの地を流れる清水川の岸壁に数々の塔や墓形、梵字(ぼんじ)が刻まれたといわれています。1200年、河辺氏の菩堤寺が建てられ、川辺地方での仏教はさらに盛んになりました。この頃に川辺仏壇の技術と技法が確立されたといわれています。1597年ごろ、薩摩地方は島津藩主による一向宗の禁制と明治初期の廃仏毀釈により、多くの仏像・仏壇が失われました。しかし「隠れ念仏」のかたちを取るなど信仰は根強く残りました。明治になって信教の自由が許されると、公に仏壇製作が始められ今日の川辺仏壇の基礎となりました。
川辺仏壇の魅力
凝縮された、祈りの様式
細部まで精密な技術の粋
川辺仏壇は、分業体制により作られるたいへん精密な仏壇です。木地、宮殿(くうでん)、彫刻、金具、蒔絵、塗り、仕上げの各部門の職人たちの手仕事による技術の粋を集め製作されています。大きな特徴として、川辺仏壇には他の仏壇には見られない独特の様式があります。それは「ガマ」と呼ばれるもので、いわゆる「隠し仏壇」。幅と奥行きが30~60センチ、高さは80~120センチと小さく、通常であれば別々に作られる台座と本体が一体化している構造。これは、表だって信仰を続けることが出来なかった時代、狭い洞窟での礼拝により生み出されたものといわれています。仏教に深く帰依した人が密かに受け継いできた歴史背景にも奥深い魅力を感じます。
川辺仏壇ができるまで
やがて金色に染まる仏壇。
古の手仕事を結集して作製
まず木地づくり。原料は杉、檜葉(ひば)、朴(ほお)といった木材を厳選します。本体は分解・組立が容易で下部は横に渡した木で結合できるよう配慮されています。次に図柄を選定して彫刻します。台木の取り付けには接着剤を用い、竹串などで接合します。宮殿(くうでん)という作業では、本組構造で柱と屋根を正確に保持し精密に組み上げます。これは、川辺仏壇独特の技法です。金具部分の作成も行われます。素材は銅合金を使用し、図柄を丹念に鑿(さく)をもって手加工を施します。蒔絵では、漆塗装した上に精製漆を使用して下絵を描きます。その上に純金粉天然青貝を使用し、手描きで仕上げます。下塗りをし、下地が乾いてから天然の漆を手塗りで塗り上げます。乾燥が終わると箔押漆(接着剤の役割する漆)を摺り込み、純金箔を箔押しします。そこから慎重に組み上げ、完成です。
主な産地・拠点 | 鹿児島県 |
このワザの職業 | 仏像彫刻家 箔押師 仏具錺金具師 宮殿師 塗師 木地師(仏壇・仏具) 蒔絵師 |
ここでワザを発揮 | 仏壇 仏具 |
もっと知りたい | 鹿児島県川辺仏壇協同組合 |