摺師の手仕事が生み出す美しい世界。
江戸から続く木版画の技を明日に伝える。
木版画摺師として、
この道62年のベテラン。
東京の下町、荒川区町屋にある工房を訪ねたのは、猛暑日を記録した8月のこと。ここは、この道62年の江戸木版画・摺師、松崎啓三郎さんの工房「松崎大包堂(まつざきたいほうどう)」です。2階の仕事場では、松崎さんをはじめ、ご子息の浩繁さん、お弟子さん2名の計4名の職人が、木版摺りの作業を行っています。シュッシュッと小気味よい音を立てながら、熟練の技で次々と摺られていく木版画。長くこの仕事に携わっている松崎さんに、この仕事を始めたきっかけ、醍醐味について伺いました。
16歳で故郷を離れ、
元浅草の親方に弟子入り。
松崎さんがこの道に入ったのは、16歳のとき。出身地である千葉県の勝浦市、当時の上野村から台東区元浅草の高木蟹泡堂(たかぎかいほうどう)の主人、高木省治に弟子入りして摺師の道を歩き始めます。そもそも摺師になりたい、という志しのもと弟子入りしたのでしょうか。
「いえいえ、たまたまご縁があってですね。昭和27年は就職難で、どこにいっても若い衆があふれてた。戦後6、7年だから、まだ半分くらい焼け野原って頃。そんな時代だから、いろんな業種が手でものづくりをしていましたね。靴屋さんなんかも、金槌でトントンと革を叩いたり伸ばしたりしてね」。
ご縁があって、という松崎さん。高木蟹泡堂での修行は、どんな様子だったのでしょうか。
「最初の頃は、祝儀・不祝儀袋を摺ってましたね。朝起きてから寝るまで、こういうものを摺って日本橋の問屋へ納めていました」と、見せてくださったのが、いまでも日本橋の老舗小売店から依頼されているという慶事用の掛け紙。手漉き和紙に木版画摺りされた掛け紙は、色の深さ、紙の手触りになんとも言えない趣があります。手摺りの掛け紙で贈り物をされたり、手摺りの祝儀袋で祝儀をいただいたりすれば、贈り主の思いがより伝わるのではないかと感じられるあたたかな風合いです。掛け紙も、祝儀・不祝儀袋も手摺りが基本だった頃は、このような仕事はたくさんあり、“数物(かずもの)”と呼ばれていたそうです。松崎さんは親方に弟子入りをして最初の頃はずっと、数物をやっていたのだそうです。78歳のいまも、若い衆に負けないスピードがあるのは、数物をやっていたおかげと言います。
そして弟子入りから4年経った20歳で、松崎さんは独立します。
4年で独立。家族で、
掛け紙などを手がける。
4年で独立、というのは早い方なのでしょうか。
「早いね。うちは妹が4人もいて、みんな食わせなきゃいけなかったから」。ご長男として先頭に立って一家を支えていた松崎さん。妹さんたちも木版摺りを手伝い、一家総出で掛け紙などを納めていたそうです。 変わったところでは、クリスマスカードも納めていたとか。これは、日本の商社が買い求めていったそうで、1万枚、2万枚と出るので、お正月からクリスマスカードを摺り始めていたそうです。
しかし、徐々に機械印刷が普及し始め、最近では家庭でも手軽にプリンターでカラー出力ができるようになるなど環境は激変。手摺りの仕事も少なくなってしまいました。
「私がまだ若い頃なんかは、木版画の組合で3千人から携わる人がいたけど、いまは50人くらいでしょ」。
そんな背景から、江戸木版画の文化をもう一度広めようと取り組まれたのが、歌川広重の「名所江戸百景」の復刻でした。
名所江戸百景の復刻は、
組合挙げての大事業。
「これは組合で、6年も7年もかけて復刻したの。江戸東京博物館が持っている絵をお借りしたり見に行って彫師が版木にしてね。1枚の絵で版木が約10版。摺るのは色数が多いもので、30回くらい摺りますかね」。「名所江戸百景」は、有名な「大はしあたけの夕立」をはじめ、全120図あります。貴重な錦絵を、東京都と江戸東京博物館の協力を得て、東京伝統木版画工芸協同組合が総力を挙げて取り組んだ大事業でした。実物を見せていただくと、やはり色には深さがあり、何度もバレンでおさえられてできた版木の跡、手漉き和紙の質感が、手摺りならではの躍動感を伝えてきます。携わった職人の皆さんの、熱のようなものも伝わってきます。江戸木版画の技の継承は、このように東京都も積極的に支援しています。松崎さんが工房を構える荒川区でも、技の継承を支援するユニークな制度があります。
荒川区のユニークな、
技の継承支援制度。
荒川区には、江戸以来の伝統技術を受け継ぐ職人が多く暮らしています。そこで区では、早くから伝統工芸技術を受け継ぐ職人を、区の無形文化財保持者として指定・登録するなどしてきました。松崎さんも、平成23年(2011年)に荒川区指定無形文化財保持者に認定されています。また、昨今では受け入れ先である親方の事情などで難しくなった、弟子入りを支援する「荒川区匠育成支援事業」を平成21年度から実施しています。松崎さんのお弟子さんも、この制度を活用していま、技の習得を行っています。松崎さんが62年間、積み重ねてきた技が、少しずつ若い職人の手へと受け継がれています。
松崎さんに、この仕事の面白さ、醍醐味を伺ってみました。
「なかなかね、面白さに到達するのって大変よ。でも、やっていて『よく上がったね』なんて言われるのは実に気分のいいものですね。それが一番のほうびでしょうかね」。
手摺り文化の素晴らしさをもう一度多くの人に気づいてもらい、そして使ってもらうことで、若手職人の仕事が増え、この仕事が未来へつながっていく。実際に木版画を手に取ったときに、それだけの力、人を動かす力を木版画は持っていると感じました。ぜひ多くの人に、触れていただきたいと思います。