能登発世界。日本を代表する漆器のふるさと
北陸・能登半島の
風土が生んだ輪島塗。
日本海に突き出た能登半島の北側、日本海に面した街である輪島。早くから北前船など日本海航路の寄港地として重要な役割を担っていました。この地で生み出される漆器「輪島塗」は、江戸時代からこうした航路などにもよって運ばれ、日本全国に広まりました。現在では、海外でも日本の代表的な漆器として、高い評価を得ています。
その輪島塗が始まったのは室町時代と言われています。近隣に漆の木や、木地となるアテ、ケヤキの木、漆に混ぜる「地の粉(じのこ)」など、漆器の元となる良材が産出したのが発展の理由のひとつ。特に「地の粉」の発見は、輪島塗に大きな影響を与えました。これは珪藻土(けいそうど)の一種。藻類の化石の堆積物で、能登地方では多く産出されます。輪島塗の下地に塗る漆に混ぜることで、より固く狂いのない漆器をつくることができます。現在も輪島近郊で採掘され、輪島漆器組合の管理の下、隣接する工場で精製されています。
工場長の鷹眞(たかまこと)さんに見せていただきました。まず珪藻土の中でも不純物の少ないものを選び、練って天日干しに。さらにおがくずと一緒に蒸し焼きにしたものを細かく砕きます。その際、幾層にも塗る下地の段階に合わせて粒子の大きさを変えます。この地の粉が入っていなければ、輪島塗とは言えません。輪島塗を表現する「堅牢優美」という言葉がありますが、それを支えているもののひとつが、この地の粉なのです。
人と人とのつながりを
大切にしてきた町
輪島、と言えば「朝市」が有名です。市内の中心部に多数の露天が並び、農産物や海産物が売られています。売り手はみんな農家や漁師の奥さんたち。元気のいいやりとりがそこかしこで聞かれます。買い物ひとつとっても、会話を楽しんでいるようです。輪島はこうした人と人とのつながりを大切にしている町といえるでしょう。
この輪島の町を代々見守ってきた重蔵(じゅうぞう)神社の宮司、能門重矩(のとしげのり)さんに話をうかがいました。
「輪島には3つの連(つ)れ、というものがあります。ひとつは幼なじみのいわば友だち、という連れ。そして同じ塗師屋などで働く職人仲間の連れ。もうひとつは厄年に当たる男の人たちが集まって、重蔵神社や住吉神社の曳山祭(ひきやままつり)を運営する『御当連れ』と呼ばれる輪島独自のもの。輪島の人たちは家族以外にも、こうしたつながりを大切にしてきたのです。輪島塗という優れた器も、みんなの力を合わせて生み出されたもの。もっともっと使って欲しいですね」。
今、宮司さんは、輪島塗の家具膳を使って地元の素材を使った料理を楽しむ「ごっつぉ(ごちそうを意味する方言)の会」という集まりを定期的に開いているそうです。実はこの重蔵神社には、現存する最も古い輪島塗、「朱塗扉(しゅぬりとびら)」があります。室町時代のものと言われており、明治時代の火災で建物が焼けたとき、扉だけが海まで飛んで焼失を免れた、という逸話があるそうです。
塗師屋はヒットをつくる
商品プロデューサー
輪島塗の特徴は、高度に専門化した職人の分業でつくられるということ。木地をつくる、下地を塗る、研ぐ、上塗りをする、蒔絵や沈金を施す。それぞれの分野のプロフェッショナルたちが、それぞれのワザを競います。各々個性も豊かですから、職人の組み合わせによっては、同じ商品でも、全く異なった味わいが出ます。それをまとめるのが親方である塗師屋(ぬしや)の仕事です。
直接聞いた客の声などを参考に、こんな商品がつくりたい、それには木地はどの職人に発注して、塗りは誰で、蒔絵師は誰で、というように決め、デザインや大きさ、製作する数も考えます。現代で言えばまさに商品プロデューサー。常に時代の要望に応えてきたことで、輪島塗はいきいきと今に伝えられたと言えるでしょう。
創業152年目の老舗塗師屋の5代目にあたる塩安漆器工房代表、塩安眞一さんにお話をうかがいました。
「昔は輪島塗、といっても現在ほど有名ではありませんから、今で言うカタログのようなものをつくったり、見本を持って行ったりして、一生懸命知ってもらう、信じてもらうことを真剣に考えていました。今もそれは変わっていません。輪島塗の良さ、日本の伝統技術のすばらしさをもっともっと知ってほしい。そのためには、すぐれた職人がもっと必要です。職人は、一度きちんと技術を身につければ、自分の創意工夫でいろいろなことができる。新しい人、若い人にチャレンジして欲しいですね」