壺屋焼の歴史
東南アジアから南蛮焼が
伝わり、作陶がスタート
壺屋焼の起源は定かではありません。しかし、一説には東南アジア諸国との交流の中で、南蛮焼と呼ばれる焼き締め陶器が伝わり、作陶が始まったとされています。1609年には、薩摩藩の占領によって、交易などに制約がかせられたため、琉球王朝の尚貞王(しょうていおう)は、産業の振興を目的に、分散していた幾つもの窯場を市街の一角に集め「やむちん」と呼ばれる焼き物街を築きました。さらに、薩摩の朝鮮陶工らを招き、焼き物の指導を促進。これによって、上焼(じょうやち/絵付陶器)が焼かれるように。また、1671年には陶工・平田典通(ひらたてんつう)を中国に派遣し、赤絵などの加飾技術を学ばせるなど、発展への土台を築いていきました。
壺屋焼の魅力
剛の「荒焼」、柔の「上焼」。
今にも動き出しそうな絵模様
壺屋焼は、「荒焼」と「上焼」に大別され、それぞれ作陶方法や特徴が異なります。陶土の風合いを生かすべく、釉薬を掛けずに高温で焼き締める「荒焼」は、その名の通り荒々しい容姿で、力強さを感じられます。魔除けで知られるシーサーもこの荒焼の一種です。一方、陶土に白土をかぶせ、絵付等を施し、釉薬を掛けて焼く「上焼」は、生成りのようなやさしい白色が魅力となっています。絵模様は、主に沖縄地方の動物をモチーフにしたものが多く見られ、自然のエネルギーを感じる躍動的なタッチも印象的。また、諸外国との交流も盛んだったため、他の産地には見られないエキゾチックな趣も宿しています。生みだされる作品も独特で、紐で吊って持ち歩くのに便利なよう腰にフィットするカーブが施された酒器「抱瓶」は、「用の美」を備えた作品と言えます。
壺屋焼ができるまで
多彩な加飾技法で、大いなる
自然のエネルギーを表現
まずは、採掘した白土と赤土を配合し、これをろくろや木型、手びねりなどの技法で成形していきます。成形後、加飾し、焼成すれば「荒焼」は完成となります。一方、「上焼」は次のような工程で作られます。成形後、白土を水に溶いたものを掛けます。この作業で赤土の素地を隠し、温かみのある白色を生みます。つぎに、半乾きの状態で、釘で線を彫る「釘彫り」や、ろくろで回しながら鉋(かんな)で刻み目を入れる「飛び鉋」、化粧土をスポイトで垂らして模様を描く「イッチン」など、さまざまな加飾技法で動物などをモチーフに大いなる自然のエネルギーを表現していきます。さらに、透明釉、飴釉、緑釉、黒釉など、仕上がりのイメージ合う釉薬を掛け、乾燥後、焼成し完成となります。
主な産地・拠点 | 沖縄県 |
このワザの職業 | 陶芸家 |
ここでワザを発揮 | 酒器(カラカラ) 抱瓶(ダチビン) 獅子(シーサー) 壺 |
もっと知りたい | 壺屋陶器事業協同組合 那覇市伝統工芸館 那覇市立壺屋焼博物館 |