東京七宝の歴史
古代エジプトの頃から人々を魅了。
日本にはシルクロードを通じて伝来。
その美しさで、人々の心を動かしてきた七宝焼。古代エジプトではツタンカーメンの黄金マスクにあるラピスラズリに、中世にはキリスト教の聖具の装飾に、19世紀末のアール・ヌーヴォーでは数多の装飾品に七宝の技術は使われてきました。日本にはシルクロードを経由し中国から伝わったとされ、正倉院の宝物にも七宝が見られます。その後日本では、京七宝、尾張七宝、加賀七宝と各地で発展します。東京七宝の祖とされているのは、江戸初期に幕府のお抱え七宝師として、刀の鍔(つば)などの名作を残した平田彦四郎(道仁/どうにん)です。平田家に伝わる七宝の技は、明治初期まで門外不出とされて受け継がれて行きます。慶應3(1867)年の第5回パリ万国博覧会でナポレオン3世以下に薩摩藩が贈った「薩摩勲章」が好評を博したのを機に、日本国でも勲章の認識が高まり、明治政府が七宝焼家元であった平田春行に試作品を依頼します。これが後の旭日章、東京七宝の元祖の七宝焼となります。東京七宝は、平成14(2002)年1月25日、東京都の伝統工芸に指定されています。
東京七宝の魅力
メタル七宝とも呼ばれる質実剛健な美。
アクセサリーやエンブレムなど用途も多彩。
東京七宝は別名“メタル七宝”とも呼ばれますが、銅や銀などの金属の台「胎(たい)」には意匠に合わせた凹凸があり、ここにガラス粉の釉薬を盛り込み製作していきます。京七宝や尾張七宝の技法「銀線七宝」などは色の境目に置かれた金属のラインがあまり意識されませんが、東京七宝では色の境目に銅や銀の存在が意識され、意匠が際立ちます。質実剛健とも言える凛とした美しさを備えているところが、東京七宝の魅力の一つです。かつては「色のついたものは七宝」という時代があり、アクセサリーはもちろん、校章、社章、電化製品のエンブレムまでが東京七宝で作られていました。エンブレムのメーカー名のように、存在感を表現するのには、東京七宝が適していますし、指輪など多面に七宝を施すデザインは、メタル七宝と呼ばれる東京七宝でないと表現できないものです。
東京七宝ができるまで
七宝専用の釉薬を盛り付け、焼成、研磨。
この工程を繰り返し輝きを引き出す。
まず金属の台「胎」の表面の油を「空焼き」で取り除き、空焼きした素地や焼かれてできた酸化膜を硝酸等で洗う「酸洗い(キリンス)」を行います。そして七宝専用のガラス粉「釉薬」をすり鉢で均一な粒子にしていく「こなし」を経て、「盛り付け」の工程に移ります。「盛り付け」では竹ヘラ(ホセ)を使って「胎」の凹みの部分に釉薬を盛り込んでいきます。3〜5時間程度「乾燥」させた後、電気炉で800℃〜820℃の高温で「焼成」します。その後、砥石で表面を磨く「研磨」を行なって表面を整えます。この「盛り付け」、「焼成」、「研磨」を数回繰り返した後、「上げ焼き」で最後の焼成をかけます。「上げ焼き」のすんだ製品は、そのデザインの雰囲気に合わせ、ソフト金メッキ、ソフトロジウムメッキ、ロジウムメッキ、金メッキなどのメッキをかけて仕上げます。最後にメッキをかけるのも、東京七宝の特徴です。
主な産地・拠点 | 東京都(台東区、荒川区、北区ほか) |
このワザの職業 | 七宝師 |
ここでワザを発揮 | 徽章、アクセサリー、ステーショナリー、カトラリー、表札など |
もっと知りたい | 東京七宝|東京伝統工芸士会 |