大谷焼の歴史
四国を代表する陶器の一つ。
江戸後期に赤土で作られた陶器
徳島県鳴門市大麻町で、約200年前から焼き続けられている「大谷焼」は、四国を代表する陶器の一つ。江戸時代の後期に、四国八十八箇所霊場の巡礼にきた豊後の国(大分県)の焼物細工師が、大谷村(現在の鳴門市大麻町)の蟹ヶ谷の赤土で作ったのが起源と伝えられています。当初大谷村では、徳島藩主からの命令で磁器の生産を開始しましたが、材料が大谷村にないため損失が大きく、短期間で閉窯しました。天明4年(1784)、納田平次平衛が信楽焼の職人を雇い陶業技術を習得し、大谷村に登り窯を築いて陶器(民窯)の生産を開始。これにより大谷焼は広まりました。明治時代には染め物に使う藍甕(あいがめ)、大正時代の多様な変遷を経て、今日では大甕(おおがめ)から日用雑器に至るまで、多彩な品が作られています。
大谷焼の魅力
藍甕の伝統を活かした大物陶器
暮らしに息づく素朴な温かさ
華やかさよりも素朴で力強く、どこかほっとする佇まい。そんな焼物が大谷焼です。湯飲みやとっくり、花器など暮らしに息づく民芸の器をはじめ、近年は独創的な芸術品まで幅広い作品が生まれています。一方で、大谷焼のその大きさでも有名。大人の背の高さほどもある甕や、まるで池のような睡蓮鉢などもめずらしくありません。そんな大物陶器の製作には、「寝ろくろ」といって、二人一組となり、一人が成形を担当し、一人が寝ころび足で蹴ってろくろを回すといった方法で成形することがよく知られています。
大谷焼ができるまで
鉄分の多い地元の粘土で作成。
大型陶器の場合「寝ろくろ」で
水簸(すいひ/水中に沈降させ粒子の大きさ別に分けること)を行う湿式と水簸を行わない乾式の2つの製法がありますが、ここでは湿式と呼ばれる方式の工程をご紹介します。大谷焼は、地元で産出される堆積粘土で鉄分が多い萩原粘土、讃岐粘土及び姫田粘土が主原料。まず原土を採掘し、乾燥させて細かく砕きふるいにかけて精製します。その後精製した土を水槽に入れ攪拌(かくはん)してこし、陶土を沈殿させます。次に粘土状になった土を足で踏みつけ均一な固さにし、手で揉んで空気を抜いて成形しやすい状態にします。そして、ろくろで形をつくりますが、大きいものの場合は二人がかりで寝ろくろ(二人一組となり一人が成形を担当し、一人が寝ころび足で蹴ってろくろを回す)で成形します。乾燥させ、施釉の済んだ製品を窯に詰め1230℃の高温で焼き上げて完成です。
主な産地・拠点 | 徳島県 |
このワザの職業 | 陶芸家 ろくろ成型職人 |
ここでワザを発揮 | 酒器、かめ、鉢 |
もっと知りたい | 大谷焼窯元 大西陶器 陶業会館(梅里窯) 田村陶芸展示館 |