自然の恵みと人の手が作り出す鉄の器。
400年伝承され続ける技の底流に流れるもの。
独立して工房を構える、
3人の「鉄瓶屋」さんを取材。
約400年前より、代々の南部藩主に保護育成されてきた南部鉄器。鉄の器がそれほど昔から人の手で作られていたことも驚きですが、鉄器が「砂鉄」「漆」「川砂」「炭」「粘土」の5つの自然の恵みによって作られるということも、意外に知られていないのではないでしょうか。南部鉄器が岩手県の伝統工芸品として、いまなお生産され続けているのは、岩手県に古くから良質な資源があったから。この自然の恵みと東北の人々の知恵により、南部鉄器は大いに発展して来たのです。鉄鍋、鉄瓶、風鈴、文鎮、茶釜などなど、今ではバリエーションも豊富な南部鉄器。その中でも今回は、「鉄瓶屋さん」と親しみを込めて呼ばれる、鉄瓶専門に製作する職人さん3名にインタビューしました。
2010年に南部鉄器協同組合員で20年ぶりの独立を果たした、「鉄瓶工房高橋」の高橋大益さん。2011年鈴木盛久工房を定年退職後、自らの工房「田山鐵瓶工房」を開設した、田山和康さん。そして、高橋さんが独立する20年前の1991年に「七ツ森工房」を設立した佐々木兼作さん。みなさんの修業時代と今についてお話をうかがいました。
業界自体がどん底の時期。
自ら道を開くために独立。
岩手県雫石町。すぐそこに雑木林が迫る静かな場所に、高橋大益さんの工房はあります。窓から穏やかな光が差し込む室内には、鉄瓶づくりに必要な道具、煤、材料である土や砂が渾然一体となり少年の秘密基地みたいな雰囲気を醸し出しています。もとは車庫だったところを、窓、扉を設置し、道具の置き場をつくり、と一つ一つ手を入れ工房にしたのだそうです。
「独立をしたのは、2010年のこと。業界自体の景気はどん底で、自分で道を切り開いていかねば、という思いからの独立でした。手作りマーケットに出品した鉄瓶も好評で自分自身では独立してもやっていけるだろうと思っていたのですが、業界内では大丈夫なのかと心配する声もありました」と高橋さんは笑いながら話します。実はいま、南部鉄瓶は中国で大ブーム。高橋さんのところにも注文が殺到し「朝8時から夜8時まで働いて、土日もなし」という状況なのだそうです。高橋さんの表情からは、ものづくりに携わる人に特有の人生への充実感が伝わってきます。しかし、ここまでの道のりは、決して平坦ではありませんでした。
一度は辛くて辞めた仕事。
ふたたび鉄瓶職人として歩く。
「高校を卒業して会社員になったけど、半年くらいで辞めちゃって。やる気も夢もなく、なんていうかチャランポラン(笑)。なんとなく就職したから、なんとなく辞めちゃったんですね」。そんな時に目にしたのが、南部鉄瓶の後継者不足について書かれた新聞記事。自分が役に立てるのではないか、と感じた高橋さんは組合に電話。紹介された工房に就職します。「ただ、そういう仕事をするとカッコいいんじゃないか、みたいな気持ちもあったし、仕事も厳しかったので2年で辞めてしまったんです」。「もうこの仕事に就くことはないだろう」と思っていた5年後、サラリーマン生活を送っていた高橋さんは偶然にも昔の職人仲間と再会します。「おまえ、そのままでいいのか。その仕事は楽しいのかって聞かれて、俺はこののままでいいのかなと。2年間だけど鉄瓶職人やって技術もそれなりに習得していたのに、このままでいいのかなと悩んで、もう一度組合に相談して戻ったんです」。それからは、覚悟と鉄瓶づくりの醍醐味を得て一生懸命に取り組みます。高橋さんに「どんな仕事でも修業期間は辛いもの?」と質問をすると「志が高ければ、そんなことはないのでは」という答えが返ってきました。そして、こんなことも。「自分で習得した技術を誰かに伝えたい。自分も先輩方から教わってきて今がある。それを次の人に伝えるのが業界への恩返しだし、誰にも伝えずに死んだら無意味な人生になる」。紆余曲折あった19歳からの23年間。今なら男子一生の仕事、と胸を張り言えるのでしょう。
住み込み弟子は、
あの時代いいシステム。
中学を卒業後、学校の校長先生の紹介で南部鉄瓶の世界へ入ったという田山さん。盛岡藩の召し抱え釜師、第十三代鈴木盛久氏の工房へ住み込み弟子として入ったのは16歳のとき。昔は当たり前だった「住み込み弟子」という形態をとっているところは、今では数多くありません。師匠の家に住み込み、寝食を共にするというのはどんなものなのでしょうか。また、16歳といえば遊びたい盛り。辛くはなかったのでしょうか。
「当時は高校に進学するのは、3分の1いれば多い方。集団就職するか高校へ行くかという時代。自分は机に座っている仕事より、手を動かす仕事がしたかった。鋳物づくりのことは知らなかったけど、工房で鉄瓶や茶の湯釜を見て、面白そうな仕事だと思いました」。工房を見学してすぐに弟子入りを決めたという田山さん。朝起きてから寝るまで自由な時間はなかったけれども、仕事は楽しく、時間があれば仕事場に入っていたそうです。「中学出てすぐに入ったから遊ぶということをしていない。遊ぶ楽しさを知る前に、仕事が面白いとなった。仕事は覚えた分ずつ自分でできるようになる。遊びたいとか街に出たいとか、思わなかったですね」。また、師匠は地元の名士の一人。さまざまな来客があり、その度にお茶をお出しして、師匠と客人の会話に耳を傾け広く世の中のことを知ったと。「いまの会社員は時間通りに働く。住み込みは自由な時間はないけれども、その時代はいいシステムだった」と振り返ります。
そして、44年間勤めた鈴木盛久工房を定年退職。同年、自宅の敷地内に工房を開設します。
自分の工房を開設。
もう一段いい南部鉄器を。
60歳になり、鈴木盛久工房の若い人も育ち、あとは大丈夫だと感じた田山さんは、「南部鉄器に、こういう人がいた」という足跡を残したいと自ら工房を構えます。独立して、より多くの人に技術を伝承することで、もう一段いい南部鉄瓶が出来るのではないかとも思っているそうです。工房へは昨年末、東京で会社員生活を送っていた次男、貴紘さんが入り鉄瓶職人としての道を歩き始めました。
「鉄瓶屋には不況がない。職人が少ないので生産が需要に追いついていません。ここ4、5年は仕事が増えていて県外からも若い人が入って来ています。型は重いし真っ黒になるけど、女性もいますよ」。これまで取材した伝統工芸では、「仕事は面白いが入ってくるなら覚悟が必要」というのが大多数。「私の代で終わり、子どもには継がせられない」という声もよく聞かされる中で、田山さんの話には勢いがあります。もちろん、多くの伝統工芸と同様に、従事者が減りそれに伴うさまざまな問題を業界が抱えているのは事実。しかし、それを上回る未来への明るい展望は、約400年にわたり高められて来た南部鉄器の道具としての魅力と、それをつくり出す職人の南部鉄器への愛情なのではないかと思います。「この仕事は、はまると足を洗えなくなる。熱い鉄を流す時の魂を揺さぶられる感覚」、そう語ってくださった田山さんの言葉に、それは現れていたように思います。
自分ならこう作る。
その思いを胸に鉄瓶の世界へ。
宮沢賢治ゆかりの地、七ツ森に佐々木さんの工房はあります。線路の側に建つ工房には、時折、秋田新幹線が走り抜けていく音が響きます。薄日の射す工房は、やはり少年の秘密基地のよう。漂う風格は、佐々木さんがここに工房を構えて22年という時が醸し出すのでしょう。佐々木さんは秋田県鹿角市の出身。中学を卒業して、いわゆる金の卵で横浜へ。そこで鋳物工場に勤めます。
「アルミの鋳物工場で機械部品を作っていた。図面通りにね。その頃、秋田へは盛岡を通って帰るんだけれども、南部鉄器を見ては、俺ならこういうもの作りたいなと思っていた」。岩手日報を横浜で取り、南部鉄器の工房への転職の機会をうかがっていた佐々木さん。鋳物工場に勤めて9年が経過したとき、盛岡の大手工房への就職の道が開けます。規模の大きな工房だったため、鉄瓶づくりのすべての工程を経験することはなかったそうですが、ものづくりはもちろん、宴会、旅行と会社勤めならではの仲間との交流は面白かったそう。それでも、「いずれは一国一城の主に」という思いは強く、独立することになります。
「一人でやり始めて、盛岡や岩手で賞を取り、賞金稼ぎと言われたことも(笑)。初出品で奨励賞もらって驚かれたこともあったね。でも何年かたったら、まるっきりお金がなくなって公募展にも出品できない。そのうちテレビ番組で、南部鉄瓶でお湯沸かすと鉄分が採れるっていうんで、また在庫がなくなるくらいのブーム(笑)」。山あり谷ありの22年を、佐々木さんはユーモアたっぷりに明るく語ります。
遠く東京から現れた、
小さな弟子入り志願者。
佐々木さんは現在67歳ですが、「まだまだ、作りたいものがある」と創作への意欲は衰えません。そんな佐々木さんのもとへ今年の夏、小さな弟子入り志願者が現れたのだそう。
「東京の子でインターネットで、私の作品を見てこんな鉄瓶がつくりたいと。電話してきた翌日、お袋と一緒に訪ねて来た。聞けばまだ中学生だと言うんで、今は高校も義務教育みたいなもんだから、高校くらい出ておいでと帰した(笑)」。思いがけない崇拝者の出現に戸惑いながらも、嬉しそうな様子。小さなお弟子さんが誕生する日がくるのは、佐々木さんの鉄瓶、そして南部鉄器を愛する人々にとっても嬉しいこと。高め続けられている美と実用が、伝承の鎖をつないでいる。南部鉄器はこうして、これからも続いていくに違いありません。
※次回は「道具考vol.4」で南部鉄器にまつわる道具を紹介します。
南部鉄器 鋳型