美濃焼の歴史
古墳時代が起源。茶道の流行と
共に独自性溢れる作風が誕生
美濃焼の歴史は、古墳時代にまで遡ります。当時、須恵器(すえき)と呼ばれる朝鮮から伝わった製品が造られていました。平安時代になると、中国の唐・宋の白磁や青磁を模した、白瓷(しらし)と言われる灰釉(かいゆう/草木の灰を主成分とした釉薬)を施した陶器が焼かれるように。はじめは、貴族などの上流階級の人々が使用していましたが、徐々に庶民にも普及。こうした流れもあり、無釉の碗と小皿の生産へと転換していきました。桃山時代には、茶道の流行と供に、日本独自の瀬戸黒・黄瀬戸(きぜと)・志野(しの)などの「美濃桃山陶」(桃山時代に美濃窯で焼かれた陶器)が誕生。さらには古田織部により、斬新で独創的な「織部」が創作されました。現在では日本の和・洋食器の大半を生産するなど、一大生産地を形成し、大きく発展しています。
瀬戸染付焼の魅力
優れた配色のバランス
自由で躍動感のある形と模様
美濃焼の中でも志野、黄瀬戸、織部、瀬戸黒などは色合いを大切にしたものが多く、淡い色彩の素地と釉薬の仕上がり、バランスのとれたデザインが見どころです。花鳥風月や幾何学模様などの躍動感ある文様、そしてグシャリとねじ曲げられた形が多く見られる「織部」のほか、細かい線描きによる草花文が品を感じさせる「黄瀬戸」など、繊細かつ自由で遊び心が感じられる絵付け・大胆な形・斬新な釉薬も特徴となっています。こうした「ゆがみ」に「美」を見出すのは、世界的に見ても、日本独自のものであり、他の陶磁器では見られない躍動感が見る者を惹きつけます。
瀬戸染付焼ができるまで
さまざまな釉薬を使いこなし、
思い通りの作品に仕上げる
まずは、「土練り」で水分などを均一にした陶土を、ろくろ、手ひねり、押し型などの技法で成形していきます。その後、模様を描き、充分に乾燥させ、素焼に移ります。素焼きによって吸水性と強度が増し、釉薬がかけやすくなったものに、下絵を描いていきます。つぎに、ぬくもりを感じさせる乳白色の仕上がりとなる「志野釉(しのゆう)」、まるで油揚げのような仕上がりになる「黄瀬戸釉(きぜとゆう)」、深い緑色の仕上がりとなる「織部釉(銅緑釉)」といった釉薬を、仕上がりのイメージにあう手法で施し、本焼を行います。本焼後、絵や模様を描き、もう一度焼いていきます。最後に、仕上げのヤスリ掛けなどをして完成となります。
主な産地・拠点 | 岐阜県 |
このワザの職業 | 陶芸家 |
ここでワザを発揮 | 花器 茶器 飲食器 置物 |
もっと知りたい | 多治見市美濃焼ミュージアム 美濃焼伝統産業会館 |