九谷焼の歴史
九谷の山で見つけた陶石。
三つの時代を生き抜いた磁器
江戸時代初期、加賀藩の支藩だった大聖寺藩主が、九谷の鉱山から陶石を発見したのを機に磁器の生産を計画したことが始まりです。その後、陶磁器づくりを学ぶため、加賀藩の職人・後藤才次郎(さいじろう)を九州の有田に派遣。陶業技術を持ち帰ることで「古九谷焼」を生み出しました。力強い線画と華麗な色使いが特徴でしたが、約80年後に突如、磁器生産の事業は幕を閉じます。「古九谷焼」の廃窯から約100年後の江戸時代後期、九谷地方で春日山窯が開いたのをはじめ、古九谷の再興を目指す吉田屋窯、赤絵細描の宮本屋窯といった数多くの窯が現れました。この時代に作られた磁器を「再興九谷焼」と言います。明治時代以降は、窯の統廃合や海外の輸出など殖産興業(明治政府が推進した産業育成政策)で近代の「九谷焼」の地位を獲得。その後、個人を主体とした陶芸家の時代へと突入し、個性豊かな「九谷焼」が生み出されるようになりました。
九谷焼の魅力
芸術品としての価値も高い。
九谷五彩が放つ力強い様式美
九谷焼は、江戸時代初期の「古九谷」、江戸時代後期の「再興九谷」、明治時代以降の「九谷」などの時代によって特徴が異なります。源流である「古九谷」は、九谷五彩(緑・黄・赤・紫・紺青)と呼ばれる鮮やかな色を使った絵が魅力です。特に呉須(ごす/染め付けに使用される藍色の顔料)の線描は、太くて力強い印象を与えています。一方「再興九谷」は、四彩(緑・黄・紫・紺青)で表現する吉田屋窯、呉須赤絵(中国で生産された明中期以降の半磁器)を写した春日山窯など、伝統と先進デザインが特色です。近代の「九谷」は、それぞれの窯の伝統を受け継いだ職人や個性的な意識を持った陶芸家の出現によって、食器、茶器といった日用品以外にも芸術品が作られています。
九谷焼ができるまで
地元の陶石を用いて作りだす。
仕上げの上絵付は色鮮やかに
材料である九谷地方の陶石を砕き、細かい粉末にします。粉砕後、水に浸して鉄分や不純物を除去。さらに余分な水分を除き、成形しやすい固さを作ります。このとき、粘土中の水分量や空気が偏ると焼成後のヒビにつながるため、丁寧な職人のワザが必要です。続いて粘土をろくろや手ひねりなどで成形後、乾燥させて素焼きにします。そして、釉薬を施して焼成。本窯で約15時間かけ、1300℃になるまで温度を上げていきます。焼成後に、釉薬は透明なガラス質となります。最後に九谷焼で重要となる上絵付。「古九谷」は呉須で線描きしたものに九谷五彩をのせるように彩色し、「再興九谷」の吉田屋は四彩で前面を塗り込めるなど、さまざまな手法で絵付けします。さらに、800℃~1000℃の焼成により完成です。
主な産地・拠点 | 石川県 |
このワザの職業 | 陶芸家 ろくろ成型職人 |
ここでワザを発揮 | 花器、食器、茶器、置物、酒器 |
もっと知りたい | 石川県立伝統産業工芸館 石川県九谷焼美術館 能美市九谷焼資料館 |