求道者たち vol.20
鎌倉彫 2013/9/2 

自分にしかできないことは何か。
祖先から後世へ。技術と思いをつなぐ鎖となる。

古都・鎌倉で、
人々に愛される鎌倉彫
三橋鎌幽(みつはし・けんゆう)プロフィール/1980年鎌倉市生まれ。幼少の頃から祖父・三橋鎌嶺に彫りの指導を受ける。2001年より父・三橋鎌嶺(2代鎌嶺)に師事。大学卒業後、鎌倉彫二陽堂入門。2010年、巨福山建長寺管長・吉田正道老師より「鎌幽」の号を拝銘。

 寺社仏閣と四季折々の花。古都・鎌倉は何時訪れても、そぞろ歩きの楽しい街です。鶴岡八幡宮の参道、若宮大路には飲食店や土産物屋などが立ち並び、道行く観光客の目を楽しませています。素朴さの中に、凜とした雰囲気のある「鎌倉彫」は、観光客の土産物としても人気の工芸品。お盆や茶托などの生活雑器、ブローチやペンダントのアクセサリーとしての「鎌倉彫」は、全国的にも有名な伝統工芸品の部類に入るでしょう。しかし、この鎌倉彫の起源が禅寺にあるということは、案外知られていないことかもしれません。今回の「求道者たち」では、鎌倉時代より続く仏師の血筋、三橋家の若手・三橋鎌幽(みつはし・けんゆう)さんにお話をうかがうべく、鎌倉市にある工房「鎌倉彫二陽堂(にようどう)」を訪ねました。

古都・鎌倉には、平日でも観光客が多く訪れる。鶴岡八幡宮に続く参道周辺には、土産物屋や飲食店が軒を連ねる。鎌倉彫も旅の土産の定番品として知られている。

起源は禅寺にある。
慶派の仏師と鎌倉彫の関係。

 南向きの窓から薄明かりが入る部屋に、木を削る音だけが響きます。「仕事場では音楽などを流さず無音のことが多い」という鎌幽さん。ひたむきに仕事に向かう姿は、修行僧の姿と重なります。
「鎌倉彫は“素朴な中にも凜とした雰囲気を持つもの”と表現されることが多いのですが、もともとお寺の中にあったもののため、存在を主張し過ぎてはいけないという意味もあります」。鎌倉彫の起源は、宋より禅宗が伝わってきた鎌倉時代に遡ります。建長寺をはじめ鎌倉五山と称される禅宗寺院が建立される際に、お寺の什器や調度品として前机、須弥壇(しゅみだん)、香合なども作られました。この制作に当たったのが、慶派の仏師たちと、その慶派仏師に指導を受け起こった鎌倉仏師。鎌幽さんは、この鎌倉仏師の血筋をひく鎌倉彫作家となります。建長寺との縁は深く、父・三橋鎌嶺氏とともに仏具を納めています。先祖代々、鎌倉彫に従事してきた三橋家に生まれ育った鎌幽さん。意外にも大学に入学するまで別の夢を追いかけていたのだそうです。

「彫刻は光が大切です」と鎌幽さん。彫刻刀の刃(とう)の跡は、自然光があってこそ見えてくる。光の足りない曇りの日などは、仕上げの工程に掛からないそう。
鎌倉五山、建長寺。鎌倉彫の起源は禅寺にある。

鎌倉彫の家に生まれるも、
法律関係の仕事を目指す。

 「小学生の頃は、夢はプロ野球選手になること」と、多くの少年と同じように夢を描いていた鎌幽さん。家に帰ってくると家族の誰かが鎌倉彫の仕事をしているという環境で、彫刻刀を持って祖父(初代・三橋鎌嶺)と遊ぶのは日常だったそう。それでもそれを職業にと考えたことはありませんでした。「将来は法律関係の仕事をしたい」と考え、大学は法学部を選択。卒業後は警察官になることを夢見ていたそう。ところが就職活動を控えた時期に、祖父である三橋鎌嶺氏が病に倒れます。病室で「鎌倉彫を継ぐように」と祖父に言われる。「父から継ぐようにといわれたことは一度もないのですが、祖父は私が小さな頃から一貫して継がせたがっていたように思います。大学に入ってからも、芸術学部や芸術大学への編入を勧められていました。祖父からの最後の言葉。これは、継ぐしかないなと思いました」。とはいえ、職業の選択は人生の大きな岐路。決断の前には、かなり悩んだとのことです。

三橋鎌幽作「有栖川菊文飾皿」
三橋鎌幽作「香合」

人生の決断。
技術継承の鎖として生きる。

 「祖父や父がつないできたものを私の代で終わらせるわけにはいかないな、という考えと、どなたも同じだと思いますが、自分にしかできない仕事があるならば、それをやるべきなのではないかと。一年間悩んで、継ぐことを決めました」。一般的な就職とは違い、一度決めると簡単に「転職を」とはいかない仕事。鎌倉彫を継ぐという決断は、「人生の最終決断」という重みがあったそう。そして2001 年、21 歳で父・三橋鎌嶺に師事。翌年大学を卒業すると鎌倉彫二陽堂に入門し、鎌倉彫職人への道を歩み始めます。
「鎌倉彫職人としての最終的な目標は、技術を次の世代に伝えること」だと、鎌幽さんは言います。「そのためには自分がまず技術を習得しないと伝えられません。また、時間の経過の中で埋もれていった技術というものもあるのですが、これを掘り起こすこともしていきたい。掘り起こして、ある程度の作品を残しておけば、たとえば千年間、誰も鎌倉彫をやらなくても作品をもとに鎌倉彫を復活させることは可能だと考えます。これも後世への継承になります。伝統工芸に携わる者が一番に思うのは、自分は技術継承の一つの鎖である、ということではないでしょうか」。
技術を後世に伝えるため、いま鎌幽さんが取り組んでいることは4 つあります。

三橋鎌幽作「飾皿」
三橋鎌幽作「棗」

ご縁と出会いに導かれ、
祖先の歩んだ道をすべて辿る。

 「私がいまやっていることは、みな先祖が歩んできた道。高祖父・三橋鎌山の仏具、祖父の叔父・三橋鎌岳(了和)の茶道具、祖父が鎌倉彫普及のために力を尽くした教室、父が取り組んでいる作家としての百貨店での展示。この4 つを辿ってみようと」。とはいえ、ここに至るには鎌幽さんの意志と、それに同調し協力する人々との出会いがなければ実現できませんでした。
大学卒業後、「三橋了和が確立した鎌倉彫の茶道具を知るためには、茶道を習うべき」と通い始めた鎌倉市の茶道教室。その先生とのご縁で、京都の茶人や職人と交流が生まれる。京都でさまざまな出会いがある中で、大徳寺の和尚さまに「せっかく鎌倉にいるのだから」と勧められ建長寺の吉田正道老師に逢いに行く。そして接心(せっしん)という禅の修行に通い始め、やがて建長寺の仕事を依頼されるようになる。また、表千家御家元に家元出入りをお許し頂き、さらに茶道具に思いを高める。といったふうに、鎌幽さんの言葉を借りると「いい方々に出会わせて下さった」ことで、「先祖の歩んできた道を辿る」ことが実現されているのです。
「私が技術的に秀でているとかではなく、導いて頂けているのだと思うのです。たぶん鎌倉彫が、そういう時なのでしょう。たまたま私がその代だというだけで、タイミングなのでしょうね」。

蓮の花を彫り上げた香合。三橋家の手は3、4層に彫った立体感と、浮かび上がる紋様を真っ平らに貼り付けたように仕上げるのが特長。
京都の好みを「しゅっとした」と表現する鎌幽さん。関東の質実剛健に対して、繊細さを良しとする京都好みは、鎌幽さんの得意なところでもある。

ART FACTORY’s 粋。
作家としての活動から見えるもの。

 「これは、私がやりたいこと」と表現するのは、さまざまなジャンルのアーティストが競演して一つの世界を作り上げる「ART FACTORY’s 粋」の活動です。陶芸、金工、鎌倉彫に携わる5 人の若者がテーマに沿って、茶道具を製作する展覧会は、2013 年の2 月に第二回目を好評のうちに終えています。自由で挑戦のあるものづくり。この主旨に賛同する仲間を、鎌幽さんはSNS をつかいながら募ったそうです。  鎌倉彫二陽堂では、「こういうものを作って欲しい」という依頼を受けて製作することが殆ど。「ART FACTORY’s 粋」の活動は視野を広くし、自分の技術に新しいエッセンスをくれるそう。また、「職人は一人で仕事をしているので、仲間、会社で言えば同僚が出来た心強さがある」とのことです。

第二回目の「ART FACTORY’s 粋」のダイレクトメール。

生みの苦しみを乗り越えて。
自分の使命を果たしていきたい。

 形のないものを形にする作業には、生みの苦しみがつきものです。初めて制作する茶道具や仏具は手さぐりで、胃が痛くなる思いもするそうです。もちろん、その分、形になったときの喜びはひとしお。そして納めたものを使ってもらう喜び、自分がこの世を去ったあとも、ものが残る喜びがあると言います。数十年前までは鎌倉彫の職業訓練校があり、学ぶ機会や受け入れる工房があったとのこと。学校がなくなったことで道は以前よりも狭くなったものの、依然として工房に入る、教室で習って作家活動をするといった道はあります。ただし簡単な道ではなく、覚悟がなくては歩みを進められないことは間違いがありません。喜びと苦しみが、あざなえる縄のごとく続く職人の道。これから、鎌幽さんが何を目指していくのか、最後に聞いてみました。
「このまま、正直に仕事をしていくだけです」そこには、21 歳の時、祖先から後世へ技術を継承する“鎖”として生きると決心した「ぶれない心」が、確かに存在しているようでした。

彫刻刀は、刀鍛冶が打った刃を研いで自分好みにして使う。

独特の立体感が、三橋家の特長。彫っているのは菊の文様。

鎌倉彫