17歳で肥後象嵌士の道を志す。
この魅力を伝えるために成すべきこと。
肥後象嵌界に新しい風。
期待の若手象嵌士を取材。
武士のダンディズム、と表現されることのある肥後象嵌。その模様は鉄地の黒を背景に金や銀で描かれますが、そこにあるのは派手な美しさではなく品格のある美しさ。漆黒の闇夜に光る稲妻のように、一瞬のきらめきが見る人の心をとらえます。この肥後象嵌の魅力にとりつかれ、17歳の時に肥後象嵌士としての第一歩を踏み出したのが稲田憲太郎さん。20年近い経験で磨き上げたワザと熱き思いが、いま肥後象嵌界に新しい風を巻き起こしています。現在13名いる肥後象嵌士のなかでも最年少の稲田さんは、一見すると伝統工芸の職人さんとは思えない佇まい。そんな稲田さんと肥後象嵌の出会い、修業時代、そしてこれからのことをご自宅兼工房でうかがってきました。
武家から庶民へ。
熊本で愛される肥後象嵌。
肥後象嵌は、国指定の熊本県の伝統工芸品。発祥は江戸時代にさかのぼり、肥後藩主の細川家に仕えた鉄砲鍛冶が銃身や刀の鐔(つば)に象嵌を施したところから発展してきました。約400年の歴史の前半は主に武家文化の中で育まれ、庶民の手に渡り出すのは明治維新以降のこと。そもそも象嵌は金属に模様を象 (かたど) り、金や銀などの金属を嵌(は)める金工の技術で、あらゆるものに展開することが可能です。小物入れ、文鎮、アクセサリーなど様々な商品に施された肥後象嵌は熊本の人々の心をとらえ、稲田さんによると「ある時期には、ほとんどの世帯に何かしらの肥後象嵌の商品があった」と言われるほどの隆盛を誇ったのだそうです。
現在13名の肥後象嵌士は、それぞれ独立した工房をもち活動しています。稲田さんの工房は、熊本市中心部から少し郊外へ行った住宅街にあります。
洋楽が流れる、
現代的な雰囲気の工房。
工房を訪れて驚いたのは、とてもコンパクトで綺麗なこと。「金工」と聞いて、鉄工所のような雰囲気を想像していたので意外な印象です。メインの作業台には拡大鏡があり、象嵌が繊細な手仕事であることが分かります。作品を見せてくださる稲田さんも「小さくてビックリでしょ?」。制作中のペンダントトップを稲田さんの人差し指に乗せてもらうと、第一関節に収まってしまいました。「これが二重唐草(ふたえからくさ)という模様で、永遠の象徴としてお姫様の籠などに使われた模様。象嵌技法のなかで一番難しいと言われているんですよ」。象嵌に使う道具を見せてもらうと、これも小さくて繊細。「道具はほとんど自分で作ります。今使っている道具は4、5代目。長くやっているとだんだん小さく細長くなって繊細になっていく。細かいことをするのでだんだん道具も繊細になってきた感じはあります」。たとえば金槌は頭の部分が、約1センチほど。その小ささが、伝わるでしょうか。
稲田さんにとって
肥後象嵌の魅力とは
それにしても高校生が、この道で生きていこうと決心するには、象嵌は渋い世界のような気もします。稲田さんは肥後象嵌のどこに魅力を感じたのでしょうか。「肥後象嵌は刀の鍔とか火縄銃の銃身だったりとか、いろんな物にできる。その幅とか、可能性みたいなものは昔から感じていました」。稲田さんの現在の仕事は、お客さまからオーダーメードの依頼を受けて作るのが中心。ペンダントトップにこんな絵を象嵌してほしい、結婚指輪を二つ合わせたときにこんな絵が現れるようにしてほしい、などなど作るものも、デザインも千差万別。「お客さんのイメージを聞いて僕がデザイン画を描いて、材料代、手間を考えて予算の中で作るんですけど、いろんなものになりますよね、作品が。自分の色を出しながら、仕事としてご飯が食べられるというのが魅力じゃないでしょうか」。
オーダーメードを仕事の中心にしているのは、稲田さんの師匠で肥後象嵌界でも卓越した技術を持つ河口知明氏のスタイルでもあります。オーダーでお客さまに「できますか?」と聞かれて「ノー」とは言えない。なんとかして表現しようという試みの中で、技術が錬磨されていくものなのだそうです。
17歳で道を志す。
立志と修業時代。
若手期待の星として、本当に楽しそうに仕事をしている印象の稲田さん。しかし、肥後象嵌だけで生活が成り立つようになったのは、ここ4、5年のこと。入門から十数年はアルバイトをしながら、生計を立てていたそうです。ここまでの道のり、修業時代を教えていただきました。
「叔父が肥後象嵌士でしたし、河口さんの息子さんとも幼なじみで、小さな頃から象嵌に触れる機会はありました。なんか作ったり、絵を描いたりするのが好きでしたし、17歳の時には肥後象嵌をやろうと決めていました」。当時、稲田さんは定時制高校の2年生。母親と一緒に河口さんを訪ね、3ヶ月ほど体験練習をします。高校卒業後は、多くの肥後象嵌士を育てた米野美術店に就職。米野美術店は、人間国宝・米光太平(よねみつたへい)氏を中心に肥後象嵌のワザの継承を、職人を社員として雇うことで実現していました。19歳の稲田さんは、最年少の職人。慣れないうちは同じ姿勢を続けることで「首とか腰とかが固まり、軽い頸椎ねんざのようになり鼻水が止まらなくなったことも」。辞めたいと思ったことは?の問いには、「なんか分からないけど、自分ならできるって言う変な自信があったんですよ(笑)」。
弟子入り時代に学んだ
匠のワザ以外のこと
米野美術店で3、4年ほど修行した頃、不況の波は肥後象嵌界にもやってきます。職人が退社していくなか、稲田さんも米野美術店を辞め、もう一度、河口氏の門を叩きます。いわゆる弟子入りです。河口氏のもと、稲田さんは米野美術店で身につけた基本的な技術をベースに、応用的な技術を習得していきます。しかし、河口氏から学んだことは、匠の技にとどまりません。「同じ職人でも会社の中にいる職人と、独立している職人では目線が違う。河口さんの仕事を見るようになって、器用な人は頭もいいんだなと思うようになりました。ものを作るとき、どう作るか頭の中で設計図を描くスピードがとてつもなく速い」。そういった考えるスピードや技術を磨くのに、オーダーメードという仕組みは、とても勉強になると言います。「僕は結構考えるのが好きなので、独学でいろいろやってみるんです。初めてやることは楽しい。生産性が伴わないことはありますが、次に同じ技法で作る時は速くなるしよくなってくる」。
河口氏のもとで5年ほど修行し、2004年に独立。弟子入り時代は無給だったこともあり、別にアルバイトをしながら生活。独立後もしばらくは苦しい時代が続き、ようやく最近になってブログなどを見て依頼される仕事で忙しくなってきたところだそうです。
肥後象嵌の魅力を伝える。
そのためにやるべきこと。
オーダーメードを中心に制作してきた稲田さんですが、今後はオリジナルの商品制作にも力を入れていきたいとのこと。「肥後象嵌の技法はそのまま守っているんだけれども、僕の作品として差別化できるものをこれから作っていこうと思っています」。販売する場所も、いろいろ考えているそうです。近い将来、今よりも簡単に稲田さんの作品をお店で買うことができることになりそうです。
将来を見据えて、一歩一歩確実に道を切り開いている稲田さん。今後の肥後象嵌界、ひいては伝統工芸について思うことを伺いました。
「今度、台湾の大学にワークショップしに行くんですが、文化がじっとしている時代ではないなと。今は文化的なところに目が向かない時代。知らないことは恥ずかしいのではなく、知らせていない自分たちの問題。象嵌教室、県の伝統工芸館での実演、そういった場で空気みたいなもの、言葉でないものを感じてもらえる活動をするのはとても大事だなと」。確かにこうして、工房を見せてもらい、稲田さんと話をするなかで肥後象嵌の魅力は最初よりも増していきました。「きらきら輝くダイヤモンドでも、同じ視点で見ていたら、ただ光っているだけ。でも回っていたり動いていると常に反射が変わって、気付いたら人が見ていたりするじゃないですか。そういう言葉じゃないところに自分の活動があると思っています」。金工は工具箱も小さく、身軽に出かけていっていろんなことを見せられる、とも。ぜひ多くの方に、肥後象嵌の魅力、そして稲田憲太郎という人の魅力に触れてほしいと感じた取材でした。
手間と時間をかけて
作り出される肥後象嵌の工程。
肥後象嵌の工程を、稲田さんに教えていただきました。写真を織り交ぜながら、以下簡単にご紹介しましょう。
布目消しから錆出しへ。
磨きをかけ完成に。
この後、お茶たき、油を塗る、磨きといった工程を経て完成する。
【お茶たき】
お茶で煮出す。タンニン成分を付着させることで、肥後象嵌独特の黒地ができあがる。
【油を塗る】
すすなどを配合した油を塗り、さらに焼き付ける。何度も焼き付けることで錆を止められる。
【磨き】
象嵌面を磨き上げる。また図案に応じた、ぼかしや毛彫りなど表面に最終的な加工をしていく。
稲田さんをお招きしての
「トークショー&実演」が決定!!
2014年7月16日(水)に、肥後象嵌士・稲田憲太郎さんをお招きして「トークショー&実演」を開催することが決定しました。稲田さんの作品も、その場でご購入いただけます。ぜひ、ご参加ください。
肥後象嵌