萩焼の歴史
萩の地に伝来した李朝陶技が起源
楽焼の作風などが加わり、多様化
今から約400年前、毛利輝元(もうりてるもと)が、朝鮮の陶工・李勺光(りしゃっこう)、李敬(りけい)兄弟を藩の御用茶碗造りとして召し抱えたことから、萩の地に李朝陶技が伝来。これが、萩焼のはじまりです。1648年には、多くの諸窯(しょよう)が召し抱えられ、古萩(こはぎ/大道土使用以前に作陶された萩焼)の全盛時代を迎えました。当初、萩焼の作風は李朝のものでしたが、その後の1661年以降は、楽焼(らくやき)の作風が加わるなど多様化し、現在の萩焼にも通じる独自性を持った作品が焼かれるようになりました。ちなみに、萩焼と呼ばれるようになったのは、明治以降のことで、それ以前は松本焼、深川焼と呼ばれていました。
萩焼の魅力
土本来の味わいを楽しめる素朴さ
使い続けることで表面の色が変化
古くから茶人好みの器を焼いてきた萩焼。その特徴は、焼きあがりの土のやわらかさや装飾の素朴さなど、土本来の味わいを楽しめることにあります。また、原料に用いられる陶土とそれに混ぜる釉薬の具合によって、焼き上がり後に器の表面の釉薬がひび割れたような状態になる「貫入(かんにゅう)」も魅力的。長い間使っている内に、このひび割れに茶や酒が浸透し、器表面の色彩が変化するといった経年変化もたいへん味わい深く、茶の湯をたしなむ人たちの間では「茶馴れ」と呼ばれ、珍重されています。
萩焼ができるまで
焼成では、薪の投入や火を消す
タイミングを慎重に見極める
まずは、大道土(だいどうつち)、金峯土(みたけつち)、見島土(みしまつち)といった萩焼の基本となる陶土を配合して作陶に使用する胎土をつくります。これを乾燥・粉砕後、水槽に移し、撹拌(かくはん/かきまぜること)するなどして陶土をつくっていきます。古くから伝わる「土踏み」の工程後、成形しやすい状態になるまで手で捏ね、ろくろや手、型などを使い成形し、二三日陰干します。その後、鉋(かんな)で不要な部分を削り、白い土を水でといたものを掛けます。素焼き後、釉薬を掛け、登窯の焼成室に詰め、焼成の工程に移ります。焼成では、薪をくべるタイミングや火を止めるタイミングを慎重に見極めながら行います。火を止めた後は、そのまま一昼夜ないし三,四日放置して、自然に窯の熱が冷めるのを待ちます。作品が充分冷えたところで作品を取り出せば完成となります。
主な産地・拠点 | 山口県 |
このワザの職業 | 陶芸家 |
ここでワザを発揮 | 茶器 花器 食器 |
もっと知りたい | 山口県立美術館 |