幸せを届ける祝福芸「太神楽」
その400年の伝統を現代に表現する
熱田神宮の「代神楽」から始まった
庶民の暮らしに息づいた芸能
「太神楽」という言葉は、あまり耳にしたり目にしたりしたことはないかもしれません。「だいかぐら」と読むのですが、まずイメージしやすいのは「獅子舞」。これは太神楽の大切な要素のひとつです。また、傘の上で枡(ます)や鞠(まり)を回したり、いくつもの桴(ばち)を空中に放り投げて落とさず取り分けたりといった「曲芸」もテレビや寄席で見たことのある人も多いはず。それも「太神楽」の一面です。
江戸時代、レジャーと信仰を兼ねた「お伊勢参り」や「熱田参り」が流行しました。しかし、当時の交通事情を考えれば、皆がそうできるものではありません。そこで、熱田神宮の神官の子弟がご神体の獅子を持参して江戸に出張。町々や屋敷を廻り、悪魔除けをして神札を配布しました。これが太神楽の始まりです。当時は神様に代わって祈祷したので「代神楽」と呼ばれ、また、お神楽の規模・等級を表す「大神楽」と言われていたそうです。太神宮様のお神楽から「太神楽」とも言われるようになりました。
全国を廻るうちに、獅子舞に前述の曲芸が加味されて、現在の「太神楽」の形がつくられていきました。曲芸は奈良時代の初期に中国から伝わった技芸。鎌倉時代には一部の僧侶に伝えられ、鞠(まり)や桴(ばち)を基本とした各種の芸が誕生していきました。獅子舞の合間にそうした曲芸を織り交ぜることで、より庶民に親しみやすくなった「太神楽」。江戸の人々の間で大人気になりました。
神様への「奉納」「祈祷」の意味を持っていた「太神楽」。その後、寄席の登場により、「神事芸能」から次第に「舞台芸能」へと変化をしていき、江戸時代から現代へと受け継がれてきました。現在は「曲芸」の部分がクローズアップされがちですが、もともとは悪魔払いをし、祈祷をして人々の幸せを願う「祝福芸」。今回、取材させていただいた鏡味仙三郎社中の鏡味仙三(かがみ・せんざ)さんは、そうした原点を大切にしながら活動されている太神楽師です。まずは「祝福芸」としての「太神楽」の生の姿を見せていただくべく、甲府でのお仕事に同行させていただきました。
地元の甲府の街を
太神楽でもっと盛り上げたい
山梨県甲府市。戦国大名の武田氏によって発展したこの街は美しい山並みにかこまれた、豊かな土地。ブドウは江戸時代からの特産品で、甲州ワインは代表的な国産ワインです。また甲州印伝や水晶や宝石の貴石細工などの伝統工芸は現代でも高く評価され、子供用ニットの生産高も全国トップクラスの質と量を誇っています。駅前からは商店街が幾重にも延び、一大商業地域を形成。太神楽師・鏡味仙三さんは、この甲府市の出身で、地元を盛り上げたいと、毎年の年初に甲府の商店街を一座とともに練り歩いています。
「地方の商店街のご多分に漏れず、甲府の商店街も一部シャッターが閉っていたりして、盛り上がっていない部分もあります。育ててくれた街に恩返しをしたい、地元をもっともっと元気にしたいと思い、仙三郎師匠はじめ社中の皆にも協力してもらい、この取り組みをはじめました」という仙三さん。実は『やまなし大使』としても活躍。山梨県のPRに一役買っています。
将来に悩み始めたとき
出会った「太神楽」
高校時代には演劇部と山岳部に所属し、さらには生徒会長も務めていた仙三さん。当初は法律家を目指して東京の大学の法学部へ進学。しかししばらくすると、自分は、本当は何をやりたいんだろう、と悩み始めました。
「将来は人に喜んでもらえる仕事をしたい、漠然とそんな風に考えていました。でも演劇をやっていた時は、みんなに『君はしゃべらない方がいい』なんて言われてまして。それでクラシックバレーやパントマイムなどにも少しですが挑戦したこともあります」と笑う仙三さん。そんなとき「太神楽」に出会います。
「たまたま見ていたテレビのドキュメンタリーで、いまの兄弟子の仙志郎兄さんらの活動を取り上げていたんです。それを見て『こんな世界もあるのか』と感動しました。観る人を幸せな気分にする祝福芸。しかも日本の伝統芸能としてこういうものがある。これだ、と思いました」
すぐに、テレビで紹介されていた国立劇場の研修制度に応募しようと電話。しかしちょうど募集期間ではなかったことと、『大学を卒業してからでも』という担当者のアドバイスもあり、大学卒業を待ってから、晴れて第二期国立劇場太神楽研修生になりました。
国立劇場太神楽研修生時代から
現在まで毎日が修業の日々
「研修期間は3年間。挨拶から始まる礼儀作法から教えてもらいました。そして樫の木でできた桴(ばち)を一本わたされて、それを片手で回すところから研修がはじまりました。太神楽の基本は、まず一本の桴から始まります。それから、投げもの、立てもの、お囃子、獅子舞といった太神楽の実技から、日本舞踊、長唄、茶道、神代から現代までの芸術論などのいわゆる教養まで、月曜から金曜までしっかりと学んでいきます。それで授業料は無料。しかも研修中は奨学金として10万円が支給され、卒業後の条件を満たせば返却しなくてもよい、というものでした。それでその道の一流の方に教えていただけるんですから、贅沢な“学校”ですよね。でも生活費は足りなかったので、苦手なしゃべりの訓練にもなるかと思い、土日は携帯電話の販売員などのアルバイトをしていました」
研修やアルバイト終了後、夜9時からは近くの公園で練習。土日も含め、365日、修業は欠かさなかったそうです。
「とにかく、1日でも練習しなかったら、ワザは後退してしまうんです。それはいまでも同じこと。いま舞台で演じているワザや口上も、毎日練習しなければ失敗してしまいますし、その一方で新しいワザの練習も進めていかなければなりません。この世界は“ここまでやったからいい”ということはありません。“予習”と“復習”は、いまでも常に必要なんです」
研修修了後、幸いにも希望がおり、鏡味仙三郎師匠への入門がかなった仙三さん。落語協会の一員として、最初の1年は楽屋での修業になります。
「楽屋では噺家さんと同じ修業をすることになります。やはり礼儀作法からはじまって師匠方の着物をたたんだり、身の回りのものを整理したり。いわゆる下働きですが、研修生時代を含め、修業でつらいと思ったことは一度もありません。むしろ楽しかったですね。その間に得た人とのつながりは大きな財産になったと思います」
その後前座となり、最初の舞台は新宿末広亭。
「寄席デビューの時は、10回ぐらい桴を落としてしまいました。その度に最前列のお客様に拾っていただいて。練習ではうまくいっていたのですが、“お金を払って観に来ていただいている。自分はプロだ”という気持ちで逆に緊張して、体が硬くなっていたんですね」
研修生時代、またその後の修業時代、途中でやめてしまう仲間もいたそうです。しかし仙三さんは、一度もやめようとは思わなかったとのこと。その理由はどこにあったのでしょうか。
「よく太神楽の芸は、センスや才能がないとできないのではないか、と言われることがあります。私はそうは思いません。必要なのは“持久力”。粘り強さや我慢強さだと思います。学生時代、山岳部に所属していたのですが、修業は山を登るのと一緒。一歩一歩進んで行かなければ、上には行けません。私は学生時代、まったく球技などは苦手でしたが、“持久力”はあったようです。そして何より、太神楽の練習自体が楽しかった、というのが続けられた理由だと思います」
ではここで、次のページから、太神楽のワザの一部を写真でご紹介しましょう。
「舞」「曲芸」「話芸」「鳴り物」の
4つで構成される太神楽
「太神楽」には「舞」「曲芸」「話芸」「鳴り物」の4つの柱があります。「舞」には獅子舞や恵比寿大黒舞などがあります。また「曲芸」は鞠(まり)・桴(ばち)などの投げもの、傘・五階茶碗(ごかいぢゃわん)などの立てものがあります。「話芸」は滑稽な掛け合い茶番、「鳴り物」は祭り囃子や下座音楽など鉦(かね)や笛、太鼓を使った物です。
今回、国立劇場の研修室をお借りし、仙三さんには「投げもの」と「立てもの」のワザの一部を実演していただきました。
傘まわしや五階茶碗など
バランスが見事な「立てもの」
続いて実演してもらったのは「立てもの」の傘と五階茶碗(ごかいぢゃわん)。
子供たちへのワークショップや
エコ曲芸にも挑戦
現在、寄席の舞台以外にも、様々な取り組みをしている仙三さん。前述の甲府での催しもそうですし、地元の児童館に子供たちを集めて、太神楽の披露と曲芸のワークショップを行ったり、桴(ばち)や鞠(まり)を空きビンや空きカンに持ち替えて、『ECO(エコ)曲芸』にも挑戦して、リサイクルへの意識を高めたり。
「太神楽の特徴のひとつに“個人芸”であることがあげられます。能や歌舞伎はそれぞれの役柄の人がいて、鳴り物があって、とチームが必要です。その点太神楽は、レコーダーを持って行って音を流し、道具を持って行けば一人でも、どこでもできます。自分で考え、自分で努力すればいろいろなことができる。太神楽のそんな処も気に入っています」
下でご紹介する写真は、足立区立西保木間児童館で開催された太神楽公演の様子。
幼稚園児や小学生、中学生たちが放課後たくさん集まってきて、太神楽に触れました。子供たちのお母さんや高齢者の方々もいて、世代を超えて太神楽を楽しんでいました。
世界で通用する太神楽を
未来にまで伝えていきたい
一方、海外での文化交流活動にも参加している仙三さん。
「中国・タイ・フィリピン・カンボジアなどで太神楽を披露しました。記憶に残っているのはカンボジアでのこと。おばあちゃんが涙を流して感動してくれたんですね。たとえば傘の上で枡(ます)を回す。『ますます発展しますように』という、いわばシャレで縁起の良さを表しているのですが、もちろんカンボジアでは意味がわからない。でも、『日本の幸せになれる芸』に触れ、言葉はわからなくても感動してもらえた。これはとてもうれしいことでした。実は高校時代。将来は世界を旅行したいと思っていました。それには何か楽器ができるとか、パフォーマンスができるとか、世界の誰にでもわかってもらえる芸がなくては、と考えていました。太神楽はまさにそれを満たすものですし、同時に日本の文化を伝えるもの。私にとってベストのものに出会えたと思います」
東日本大震災の被災地にも訪れ、太神楽の公演を行った仙三さん。
「太神楽は祝福芸ですから、最初は行こうかどうしようか迷ったのですが、なんとか自分の芸でみんなに元気になってもらいたいと思い、公演を実施しました。結果、皆さんに大変喜んでいただき、私たちも勇気をもらってきました」
「戦前は300人いたという太神楽師も、現在協会に所属しているのはわずか22人。400年続いた日本の伝統芸能を絶やしてはいけない。私たちが育ててもらったように、いつかはもっと若い世代を育てていかなければいけないと思っています。そうして太神楽というバトンを将来へと受け継いでいきたい。その責任もあると思っています。私自身、太神楽の修業をすることで、苦手だった人とのコミュニケーションも鍛えられました。また様々な悩みも前向きに解決できるようになりました。若い人たちにもぜひ“幸せを届ける”太神楽を知ってもらって、挑戦してほしいですね」
本年5月に開業する東京スカイツリー。開業に先立って、太神楽曲芸協会の皆さんがお祝いの江戸太神楽を行います。仙三さんも参加する予定。
「これはとても名誉なこと。将来、日本の宇宙ステーションが完成したら、宇宙でも太神楽をやりたいですね」と大きな夢を語ってくださいました。
ぴったりと粋のあった
夫婦(めおと)太神楽
それでは最後にもう一度ワザの実演をご紹介します。こんどは仙花さんとの夫婦太神楽。「投げもの」の中の桴(ばち)です。
太神楽の生の演技には。とても迫力があります。是非一度、寄席などで、目の前で見てください。
鏡味仙三さん公式ホームページ http://www.kagami-senza.jp/
太神楽師