赤津焼の歴史
奈良時代の須恵器が起源
良好な環境下で様々な技術が誕生
奈良時代に焼かれていた須恵器と呼ばれる土器が、赤津焼のはじまりとされています。赤津焼が生まれた赤津地域は、昔から良質な陶土の産出地だったため、優れた陶工が生まれ育ち、その技は受け継がれて行きました。平安期には華やかな文様が誕生。鎌倉期には様々な装飾技法が編み出されて黄金期を迎えることに。桃山期から江戸期にかけては、茶華道の発達に伴い、黄瀬戸、志野、織部、御深井(おふけ)などの各種釉薬の技法が確立され、尾張徳川家の御用窯として栄えました。現代において、優雅な美しさを放つ7色の釉薬、そして12種類の装飾技法は、赤津焼の代名詞となっています。
赤津焼の魅力
7色の釉薬と12種類の
装飾技法が織りなす奥深い趣
バラエティに富んだ7種類の釉薬が魅力です。たとえば、草木の灰を用いて美しい緑色を生む「灰釉(かいゆう)」や、黒色の表面に茶褐色の斑模様が出る「古瀬戸釉(こぜとゆう)」、淡い青色が涼やかな「御深井釉(おふけゆう)」など、そのどれもが個性的。また、へらで文様を彫る「へら彫り」や、型押しで文様を付ける「印花」、竹櫛や金櫛を使って文様を描く「櫛目」などの12種類もの装飾技法も特長。多彩な釉薬と装飾技法によって生まれる作品は、同じ赤津焼といえども、異なる味わいで、その奥深い趣きが多くの人を魅了しています。
赤津焼ができるまで
「加飾」「下絵つけ」「施釉」の
3工程が職人の腕の見せ所
調合した陶土をしっかりと菊練ります。作品のデザインやサイズに合わせて、ろくろ成形や、手びねり、板状の陶土を様々な型で成形する「たたら」など、いずれかまたは併用して成形。つぎに、「加飾」や「下絵つけ」、「施釉」で陶土を彩ります。この3工程は、経験がはっきりと作品に表れるため、職人の腕の見せ所といえます。「施釉」では、素焼きをせずに釉薬を施す「なまがけ」という技法を基本として用います。焼成後、完成となりますが、「織部」と呼ばれる釉薬を使用した場合は、焼成後に仕上げとして、ドングリの渋を溶かした液体の中に約1日漬け込む「栃渋入れ」を行います。この工程によって、発色を淀ませる原因となる酸化銅の膜を除去。さらに、釉薬のヒビに渋を浸透させることで、優雅な趣を引き出します。
主な産地・拠点 | 愛知県 |
このワザの職業 | 陶芸家 ろくろ成型職人 |
ここでワザを発揮 | 茶器 花器 飲食器 |
もっと知りたい | 赤津焼会館 愛知県陶磁資料館 |