桐生織の歴史
幕府の保護等で高級織物を生産
可能に。先進技術を積極的に導入
桐生織の始まりは、定かではありません。しかし、和銅7年(714)に上野(こうずけ)の国(今の群馬県)が初めて、太くて粗い絹糸で織った「あしぎぬ」を朝廷に上納したと、東大寺献物帳に記されていることから、それ以前であることが窺(うかが)えます。その後、桐生織の名が全国に知れ渡ったのは、新田義貞の旗揚げや関ヶ原の合戦(1600)において、徳川家康が桐生の白絹(しらぎぬ)の旗を用いた為です。江戸時代末期には、工場制手工業の資産形態の確立や江戸幕府の保護もあり、金襴緞子(きんらんどんす)や糸錦のような高級織物を生産するまでに。やがて明治以降には、桐生の絹織物が世界中に輸出されるようになります。1984年には、コンピュータを導入し、生産性の向上とデザインの幅を拡大。現在では、デザイン処理の工程に、複雑なグラデーションや陰影のほか、絵画を再現できるコンピュータの画像処理技術を導入するまでになりました。
桐生織の魅力
異なる個性が光る7つの織り方。
絵画を再現した「絵画織」も注目
桐生織は、7つの織り方が国の伝統的工芸品として指定されており、そのどれもが異なる個性を放ちます。しぼ(織物面の凸凹)が特徴で、上品な光沢と腰のある風合いが光る「お召織(おめしおり)」、8色以上のよこ糸で文様を表すため豪華な仕上がりとなる「緯錦織(ぬきにしきおり)」などがそうです。こうした伝統的な織り方の一方で、工夫、改良、発明を惜しまない桐生の「匠」たちが生んだ「絵画織」も注目。一見本物の絵画に見間違えるほど細かな表情や、絵画の持つ風合いまで織物の上に再現されているのを一度目の当たりにすると、桐生織のデザイン性・技術の高さに驚かされるのと同時に、魅了されるはずです。
桐生織ができるまで
染色、撚糸、デザインの工程を
経て、一反の反物を織り上げる
蚕の繭から絹糸を製糸した生糸を、熱湯の中で60分間練り上げ、余分なものを除去し、糸を指定の色に染め上げます。その後、この後の工程である「撚糸(ねんし)」の際によりが元に戻るのを防ぐ「糊付け」を行います。そして「撚糸」、「整経」、「管捲き」の工程を経て、文様を意匠紙と呼ばれる方眼紙に写し取った後、それに従い紋紙にたて糸の上げ下げの情報を指示する穴をあける紋切という作業をし、着物などをデザイン。「ジャカード」、「機拵え(はたごしらえ)」、「機織り(はたおり)」などの工程を経たのち、出来上がったものを幅や長さを計り、傷や汚れを検査して補修して完成です。